よくある質問

みちのく伊達政宗歴史館は年中無休ですか?
年中無休で営業しております。
当施設をご利用のお客様向けに無料の駐車場がございます。満車の場合は、近隣の有料駐車場へご駐車ください。
ご利用いただけます。クレジットカード・電子マネー・PayPayが対応しています。
JR仙石線松島海岸駅、またはJR東北本線松島駅から、いずれも徒歩15分程度です。
見学施設2階へ上がる際にご利用いただく昇降用リフトがございます。また売店内に多目的トイレをセットしております。

館内ご見学用に無料貸し出しの車いす、ベビーカーがございます。スタッフまでお申し出ください。

敷地内に有料のコインロッカーがございます。(16台1回300円)
またご見学中はキャリーケース等大きいお荷物を無料でお預かりいたします。スタッフまでお申し出ください。

館内に飲食店が3店舗ございます。喫茶「伊達かふぇ」、テイクアウト専門店「竹雀庵」、かき小屋「MATSU」がございます。

施設内に売店「松島みやげ処 いだてや」がございます。お買い物のみのご利用も可能です。どうぞお気軽にお越しください。

20名様以上で団体料金が適用されます。その他各種割引につきましては料金ページをご覧ください。
伊達政宗公に関する展示はどのようなものがありますか?

等身大の蝋人形で政宗公の生涯を25の場面にてご紹介しております。順にごらんいただくことで歴史物語を読み解いていくようにお楽しみいただけます。

平均コース(ご自身のペースで見学)で約30分です。
じっくりコース(音声ガイドをすべて聞いた場合)で約1時間です。

動画・お写真共に可能となっております。
※撮影した動画・写真を各種投稿サイトに投稿される際は、他のお客様が映り込まないようにお願いいたします。また撮影に際し展示物への接触は固くお断りいたします。

展示についての詳細は下記ボタン先からご確認ください。

東北各県ごとにコーナーを設け、作家や文化人の方々など様々な分野で活躍された方々をご紹介しております。歴史の教科書に載っている人物や名前しか知らなかった人物の偉業をより詳しく知ることができます。

小学生のお子様向けのワークシートをご用意しております。ご利用の際はスタッフにお声掛けください。
館内展示コーナーに英語・中国語の解説パネルを設置しております。
現在はございませんが、ご希望の際はお問合せください。
伊達政宗公に関する展示で、珍しいものはありますか?

展示コーナーにて政宗公の遺骨を基に再現したお顔を音声を聞くことができます。松島について詠んだ詩を政宗公のお声でお楽しみください。

動画・お写真共に可能となっております。当館ではご見学いただきながら、推し活を楽しんでいただける取り組みを進めております。ぜひお連れの推しの皆様と一緒にお写真をお楽しみください。

※撮影した動画・写真を各種投稿サイトに投稿される際は、他のお客様が映り込まないようにお願いいたします。また撮影に際し展示物への接触は固くお断りいたします。

当館が実施しております甲冑着付け体験以外につきましては現在受け付けておりません。コスプレイベント等の実施希望につきましては当館広報企画部までお問合せください。
動画・お写真共に撮影は可能となっております。しかし、小道具につきましては音が鳴るもの、光るものにつきましてはお断りさせていただいております。ご不明な点につきましては恐れ入りますがお問合せ下さい。
※撮影した動画・写真を各種投稿サイトに投稿される際は、他のお客様が映り込まないようにお願いいたします。また撮影に際し展示物への接触は固くお断りいたします。
当館オリジナルTシャツや眼帯、またみちのく伊達政宗歴史館マスコットキャラクター「まさやん」のグッズを販売しております。

5歳のときに天然痘を煩い、右目の視力を失ってしまった梵天丸(ぼんてんまる・幼少期の政宗の呼び名)。名家出身・美貌で有名だった母親は、片眼となってしまった梵天丸を疎み、弟の竺丸(じくまる)を可愛がります。片眼というコンプレックスの上、母の愛情にも恵まれず、辛い幼少期を送った梵天丸。一方、父・輝宗は梵天丸を愛していました。伊達十七代の家督を継ぐ器に育てたかった輝宗は、美濃の名僧・虎哉宗乙(こさい そういつ)を梵天丸の師として招きました。虎哉は、仏教、漢学、文学など学問の手ほどきを行うだけでなく、梵天丸に「武将としての生き方」を示しました。虎哉の教えにより、梵天丸は己の弱さを克服する努力をしていったのです。

徳川の政権が確立すると、太平な世の中が訪れました。政宗は、青葉城の築城や北上川下流の開発をはじめとする数々の事業を行い、仙台藩の繁栄に尽力しました。この頃に生まれた文化は現代にも引き継がれています。後年の特筆すべき大事業は、支倉常長らをヨーロッパに派遣したことです。ローマ法王らに謁見し、キリスト教の布教と引き換えにメキシコとの貿易の許可を得ようとしたこの計画は、幕府のキリスト教弾圧もあり達成されませんでした。この時期に三陸を襲った慶長大津波のわずか2週間後に、サンファンバウティスタ号の建造と使節派遣の構想を発表したという事実を踏まえると、この計画には災害から立ち直るための強い意志が託されていたのではないかとも見ることができます。
秀吉から何度か小田原参陣の催促が来ていたものの、秀吉傘下に入ることは政宗の反骨精神が許しません。戦うべきか、否か・・・藩を二分する論争となりました。結局、時流を読んだ政宗は秀吉に追随することを決めますが、秀吉は謁見を許さず、政宗一行を箱根山中に押し込めます。その後、秀吉の陣所に呼び出された政宗。場合によっては差し違える覚悟で、死装束で謁見します。しかし秀吉は政宗に自分の刀を持たせ、山上で作戦を説明しました。絶体絶命を切り抜けた政宗は、秀吉の豪胆さに圧倒されたと言われています。
18歳の若さで伊達藩の当主となった政宗。ところがその翌年、最愛の父・輝宗が二本松城主・畠山義継の謀略により惨殺されてしまいます。この痛恨の出来事により、政宗の性格は一変し、逞しい武将に変貌していったのです。父の仇討ちをと、政宗は二本松城を攻略。人取橋の激戦を制しました。これは政宗の生涯でも最も激しい戦いでした。翌年、宿敵である芦名氏を破ると、遂に自らの手で奥州一となる200万石の大国を作り上げました。これにより、伊達藩は秀吉、北条氏に次ぐ大国となったのです。