神社!仏閣!城 仙台で伊達家巡礼の旅

歴史好き代表!
学習塾講師・歴史ライター

菅澤 一裕さん

現代の仙台の町は、
政宗公がその基礎を作ったと言っても
過言ではありません。
みちのく伊達政宗歴史館の展示を見たら、
仙台の町へ繰り出しましょう!

1日の流れ

09:00

みちのく伊達政宗歴史館

徒歩

10:20

JR松島海岸駅

電車&地下鉄

11:13

北山五山エリア

地下鉄

12:15

仙台駅

バス

13:33

瑞鳳殿(ずいほうでん)

バス

15:00

仙台城跡

モデルコース

09:00

みちのく伊達政宗歴史館

Michinoku Date Masamune History Museum

政宗公の生涯を辿る展示を見て
歴史脳にスイッチオン

政宗の生涯を感情豊かな蝋人形で再現したみちのく伊達政宗歴史館の展示は、歴史旅のスタートに最適。歴史モードのスイッチが入ったら、伊達家巡礼の旅に、いざ出発!

菅澤先生

仙台藩祖として仙台城を築き、杜の都と称される豊かな城下町を築いた伊達政宗公。政宗公が築いた文化や街づくりは、今の仙台にもたくさん残っているよ。一緒に探ってみよう!

まさやん

わーい!たのしみですやん!

菅澤先生

仙台藩祖として仙台城を築き、杜の都と称される豊かな城下町を築いた伊達政宗公。政宗公が築いた文化や街づくりは、今の仙台にもたくさん残っているよ。一緒に探ってみよう!

まさやん

わーい!たのしみですやん!

街並みを楽しみながら
歩いて15分

10:20

JR松島海岸駅

Matsushimakaigan Station

電車でビューンと城下町仙台へ!
仙台駅で地下鉄南北線に乗り換え、
北仙台駅で下車

るーぷる仙台・地下鉄共通一日乗車券を購入すると便利!
しかも、みちのく伊達政宗歴史館や瑞鳳殿で割引特典も!

電車で38分
地下鉄に乗り換えて6分

11:13

北山五山エリア

Kitayamagozan Area

自然豊かで
心落ち着くエリアを散策

「北山五山」は、仙台藩が成立した江戸時代に、伊達政宗公によって築かれた5か所の寺院を総称したもの。五重塔が美しい輪王寺やあじさい寺として親しまれる資福寺など、四季を通じて散策が楽しめるエリアです。

菅澤先生

仙台藩を開くにあたり、もともと伊達家の菩提寺として福島の伊達郡に創建されていた5つのお寺を移転させ、仙台城の鬼門においたと言われているよ。

まさやん

北山五山が仙台藩を守ってくれていたんですやん!

菅澤先生

仙台藩を開くにあたり、もともと伊達家の菩提寺として福島の伊達郡に創建されていた5つのお寺を移転させ、仙台城の鬼門においたと言われているよ。

まさやん

北山五山が仙台藩を守ってくれていたんですやん!

まさやん

政宗公が植えた木!パワースポットですやん!

菅澤先生

マルミガヤに限らず、政宗公は藩として食用になる果樹や竹を植えるよう奨励したんだ。それにより緑豊かな城下町の風景が生まれ、仙台が「杜の都」と呼ばれる所以となったんだ。

伊達家最初の菩提寺、東昌寺で
政宗公がお手植えされた木に出会う

東昌寺には政宗公が仙台城の鬼門よけとして植えたとされるマルミガヤがあります。マルミガヤの実は「御前榧(ごぜんがや)の実」として重宝され、代々藩主の食用とされていたようです。

菅澤先生

マルミガヤに限らず、政宗公は藩として食用になる果樹や竹を植えるよう奨励したんだ。それにより緑豊かな城下町の風景が生まれ、仙台が「杜の都」と呼ばれる所以となったんだ。

まさやん

政宗公が植えた木!パワースポットですやん!

菅澤先生

ここには、政宗公・愛姫だけでなく、伊達家の家臣たちも「御霊祖」として祀られているんだよ。現在の宮司さんは、白石城主・片倉小十郎の子孫なんだ。

まさやん

家臣たちもみんな、仙台藩の繁栄に尽力したとして後世まで感謝されているんですやん。

仙台青葉まつりで有名な
青葉神社へ

明治になってから、伊達家の旧家臣団が中心となって創建された青葉神社。御祭神は武振彦命(伊達政宗公)です。本殿には、正室・愛姫が合祀され、国の登録有形文化財に指定されています。また、毎年5月に開催される「仙台青葉まつり」神輿渡御でも広く知られています。

菅澤先生

ここには、政宗公・愛姫だけでなく、伊達家の家臣たちも「御霊祖」として祀られているんだよ。現在の宮司さんは、白石城主・片倉小十郎の子孫なんだ。

まさやん

家臣たちもみんな、仙台藩の繁栄に尽力したとして後世まで感謝されているんですやん。

政宗公の母・義姫の
墓がある覚範寺へ

覚範寺は、政宗公の父・輝宗の菩提寺として山形県に創建され、何度かの移転を経て、この地に移設されました。政宗の正母・保春院(義姫)の墓と、政宗の三男で黒川城主・宗清の供養塔があります。

菅澤先生

幼いころから政宗公を疎み、小田原参陣の折には暗殺をも企てたとされる母・義姫。しかしそれが失敗に終わり山形に帰った後も、政宗公は手紙のやりとりをしたり、仙台に迎え入れたりしていたんだ。

まさやん

義姫さまと政宗公は、本当はなかよしだったのかな?想像がふくらみますやん!

菅澤先生

幼いころから政宗公を疎み、小田原参陣の折には暗殺をも企てたとされる母・義姫。しかしそれが失敗に終わり山形に帰った後も、政宗公は手紙のやりとりをしたり、仙台に迎え入れたりしていたんだ。

まさやん

義姫さまと政宗公は、本当はなかよしだったのかな?想像がふくらみますやん!

北仙台駅から地下鉄で6分

12:15

JR仙台駅

Sendai Station

たくさん歩いてお腹が空いたら
駅ナカで仙台グルメを味わおう!

巡回バス「るーぷる仙台」で13分

13:33

瑞鳳殿

Zuihoden

政宗公が眠る
豪華絢爛な霊屋に魅せられる

1637年に建立された伊達政宗公の霊屋 瑞鳳殿。桃山の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築は見応えがあります。資料館では、発掘調査によって出土した副葬品や、遺骨から復元した政宗公の容貌像があり、政宗公の顔を拝むことができます。

菅澤先生

晩年、ホトトギスの初音を聞きに経ヶ峯に登った政宗公は、家臣たちに「自分が死んだらここに埋葬せよ」と命じたと伝えられているよ。実際にその1ヶ月後に返らぬ人となったんだ。

まさやん

あ!歴史館の展示のなかにもあったシーンですやん!

菅澤先生

晩年、ホトトギスの初音を聞きに経ヶ峯に登った政宗公は、家臣たちに「自分が死んだらここに埋葬せよ」と命じたと伝えられているよ。実際にその1ヶ月後に返らぬ人となったんだ。

まさやん

あ!歴史館の展示のなかにもあったシーンですやん!

政宗公は万海上人の
生まれ変わり!?

瑞鳳殿には、修験僧として名高い万海上人の供養碑があります。上人も隻眼であったことから、政宗公は幼い頃から「万海上人の生まれ変わり」と言われていました。

菅澤先生

政宗公の遺言に従って経ヶ峯に埋葬しようとしたところ、地中から石室が現われ、聞くところによると万海上人の墓だったんだ。

まさやん

なんと!とっても不思議な話ですやん!

菅澤先生

政宗公の遺言に従って経ヶ峯に埋葬しようとしたところ、地中から石室が現われ、聞くところによると万海上人の墓だったんだ。

まさやん

なんと!とても不思議な話ですやん!

巡回バス「るーぷる仙台」で13分

15:00

仙台城跡

Sendaijoato

最後に仙台藩の本丸
仙台城跡に上る

伊達62万石の居城、仙台城。残念ながら今では城は消失し、石垣と再建された脇櫓が往時をしのばせます。城跡一帯は青葉山公園となっており、本丸跡からは仙台市内、太平洋を一望できます。

菅澤先生

QRを読み込んでスマホをかざすと、最新のVR技術で仙台城の大広間を見られるんだよ!

まさやん

広間の奥に政宗公がいらっしゃるやん〜!家臣になった気分ですやーん!

菅澤先生

QRを読み込んでスマホをかざすと、最新のVR技術で仙台城の大広間を見られるんだよ!

まさやん

広間の奥に政宗公がいらっしゃるやん〜!家臣になった気分ですやーん!

仙台の町を見下ろせば、
藩主政宗公の気分に・・・

菅澤先生

仙台城から大橋を渡った大通りの先に仙台駅。それと垂直に交わる街道の先には青葉神社と北山五山。今でも仙台の街は政宗に守られているような気がするね。

まさやん

400年以上も前につくられた城下町の面影が残っているってロマンがありますやーん。

菅澤先生

仙台城から大橋を渡った大通りの先に仙台駅。それと垂直に交わる街道の先には青葉神社と北山五山。今でも仙台の街は政宗に守られているような気がするね。

まさやん

400年以上も前につくられた城下町の面影が残っているってロマンがありますやーん。

このモデルコースを考えた人

歴史好き代表!
学習塾講師・歴史ライター

菅澤 一裕さん

学習塾で子供たちに勉強を教える傍ら、地域の歴史を知ってもらいたいという思いで活動する、塾講師兼歴史ライター。
「現場第一」「一次史料第一」をモットーに、持ち前のフットワークの軽さを活かし、必ず現地で調査をして、文章を書くことを信条としている。 松島は学生時代、史料調査のアルバイトを行った思い出の地でもある。

5歳のときに天然痘を煩い、右目の視力を失ってしまった梵天丸(ぼんてんまる・幼少期の政宗の呼び名)。名家出身・美貌で有名だった母親は、片眼となってしまった梵天丸を疎み、弟の竺丸(じくまる)を可愛がります。片眼というコンプレックスの上、母の愛情にも恵まれず、辛い幼少期を送った梵天丸。一方、父・輝宗は梵天丸を愛していました。伊達十七代の家督を継ぐ器に育てたかった輝宗は、美濃の名僧・虎哉宗乙(こさい そういつ)を梵天丸の師として招きました。虎哉は、仏教、漢学、文学など学問の手ほどきを行うだけでなく、梵天丸に「武将としての生き方」を示しました。虎哉の教えにより、梵天丸は己の弱さを克服する努力をしていったのです。

徳川の政権が確立すると、太平な世の中が訪れました。政宗は、青葉城の築城や北上川下流の開発をはじめとする数々の事業を行い、仙台藩の繁栄に尽力しました。この頃に生まれた文化は現代にも引き継がれています。後年の特筆すべき大事業は、支倉常長らをヨーロッパに派遣したことです。ローマ法王らに謁見し、キリスト教の布教と引き換えにメキシコとの貿易の許可を得ようとしたこの計画は、幕府のキリスト教弾圧もあり達成されませんでした。この時期に三陸を襲った慶長大津波のわずか2週間後に、サンファンバウティスタ号の建造と使節派遣の構想を発表したという事実を踏まえると、この計画には災害から立ち直るための強い意志が託されていたのではないかとも見ることができます。
秀吉から何度か小田原参陣の催促が来ていたものの、秀吉傘下に入ることは政宗の反骨精神が許しません。戦うべきか、否か・・・藩を二分する論争となりました。結局、時流を読んだ政宗は秀吉に追随することを決めますが、秀吉は謁見を許さず、政宗一行を箱根山中に押し込めます。その後、秀吉の陣所に呼び出された政宗。場合によっては差し違える覚悟で、死装束で謁見します。しかし秀吉は政宗に自分の刀を持たせ、山上で作戦を説明しました。絶体絶命を切り抜けた政宗は、秀吉の豪胆さに圧倒されたと言われています。
18歳の若さで伊達藩の当主となった政宗。ところがその翌年、最愛の父・輝宗が二本松城主・畠山義継の謀略により惨殺されてしまいます。この痛恨の出来事により、政宗の性格は一変し、逞しい武将に変貌していったのです。父の仇討ちをと、政宗は二本松城を攻略。人取橋の激戦を制しました。これは政宗の生涯でも最も激しい戦いでした。翌年、宿敵である芦名氏を破ると、遂に自らの手で奥州一となる200万石の大国を作り上げました。これにより、伊達藩は秀吉、北条氏に次ぐ大国となったのです。